名入れ泡盛本舗 かりゆし沖縄

【沖縄移住物語】初めての記念日 vol.2

土居です。

う~~ん
「なぜ、いま(現在)、小さな息子とふたりで沖縄に住んでいるのか??」
よくよく想い起こしてみますと、わたくし、小さい頃からなぜか「ここに(生まれ育った名古屋)にいては、いけない」と思うような節がありました。
あまりにも行動範囲が限られていた(小学生だからしょうがないですけど)気がしてならなかったのです。

空を見て、おじさん(母の兄)に飛行場に連れて行ってもらって、あれ? いつも自分がいる場所よりどこか広い「遠く」があるんじゃないだろうか・・・・・

小学校の確か2年から父が家にいませんでした。
商社マンの単身赴任、ということを理解するにはあまりに幼かったと思います。
「どうしてウチにはお父さんがいないんだろう」
「いつもどこか遠くにいるのだろうか」
小学生のうちはそれはそれでよかったのでしょう。
たったひとつ、絵(水彩や風景画を主とする油彩)の才能に恵まれことごとく賞をちょうだいするのでした。
当たり前ですが、まさに目の前の風景を描写するのです。

もっと違う場所は、いったいどうなっているんだろう。
学校からの帰り道。神社を囲む木々の暗さと遠くに広がる夕陽、カラスの鳴き声・・・
小学校の5、6年にはびっくりするくらいA先生から殴られました。
生徒会やスポーツなどを通してリーダーとして、人としての責任を伝えたかったのでしょうといえば美談です(笑)。


ブランコにのった息子

 

※写真は、2012年春頃・・・・
大好きだったブランコにのった息子の背中を押しながら沖縄を想うの巻

ある夜、ほんとうに夜。自宅で夕飯も終えた後、学校の屋上に呼び出されました。
当時は自宅の黒電話です。
ついに殺される?
それくらいビビッていくと、「なあドン(当時の小生のアダ名)、見ろ。夜になると、こうして家々に明かりが灯る。

夜になると、人間のいいところ、悪いところが見えてくる。それぞれに、だ。
そしてそれは個性でもある。

おまえはもっとあいつら(友だち)のことをわかってやらないといかん」
今でもお付き合いのある恩師はこのA先生だけです。

ところが
中学生になると、いろんなことがイヤになりました。
褒められる、ということが皆無になり
「成績が悪い」
「勉強ができない」
「素行が悪くなる」・・・・・すべてがおもしろくないのです。

それこそ絵に描いたように
「悪いこと」こそがおもしろい、という田舎の小僧になるのでありました。
「かあちゃんに話してもわからない(理解はできないだろう)」
「4つ下の妹とは会話をする気にもならない」
そんな時に出逢ったのがラジオから流れる英語の音楽なんです。

ザ・「ありがち」な展開ですみません。

土曜の午後、そのラジオ番組を聴きたくて、ちゃんと家に帰ってくるほどの魅力に取りつかれ始めたのです。
本こそ全く読まなかったものの、陽の当たる小さな2階の自室にこもって耳を傾ける洋楽は、今思えば驚くほどの想像力を掻き立ててくれたのです。

そう、勘のいい人なら
「ムムっ! 英語?? なんだか沖縄とつながってきたぞ」となる??  かな??

でも、そんなに甘くはございません・・・・・
と、とんでもないことが中学も卒業って頃に起こるのであります。
とんでもない人に出逢ってしますのです。

1979年秋・・・ナゴヤ球場(現在は存在しません)・・・・
この日は「初めての記念日」と呼ぶにふさわしい衝撃の夜でした。
その人の名前は・・・・・

次回「つまんない毎日が、楽しくなってきた理由(わけ)」で、ワクワクをお届けしたいです!

ちなみに時代(TV)は「俺たちの旅~金八先生」でした。

な、懐かし~~~~~
ありがと~~~~(いー時代でした)。

「おめでとう」「ありがとう」・・・

あの人へ、想いを刻む贈り物

よろしければホームページもご覧ください。。m(__)m


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