土居です。
「え? 東京へ行きたい? 大学へ行く? 冗談抜きで?」
母がまずこの台詞を悲壮感溢れる表情で繰り返しました。
「そんなの無理だろ」的雰囲気をことごとく裏切ってきたほどではないですが
どこかまともではないところまできているような気もしていた17歳・セヴンティーン。
今回も恥ずかしさ急上昇なガラスの少年時代???のお話。
みなさんは、進路を決めるときに迷った経験はありませんか?
悩んでしまった過去はありませんか?
ぼくは、相談する人こそいませんでしたが、悩んだり考え込んだりしなくってツイています。
(受験生のいらっしゃるご家族の方はここからは読まないことをお勧めします)
なぜなら、恥ずかしいほど世界を知らず、恥ずかしいほど「何とかなる」と暴走し妄想するタイプだったのかもしれません。
(北谷(ちゃたん)町とかお休みの日は特に外国人も多いので、息子は全く違和感なく育っています。ぼくがそもそも日本人でない方とのコミュニケーションも好きですからよいことだと思っています。音楽も、スポーツも、泡盛にも国境なし!!)
「うわあ~~偏差値57かあ・・・・ってことは半分ちょっとわかれば(テストで50点代をとれれば)東京の法政大学に受かるのかあ・・・・・」(んなわけないだろっ!!)
(ちなみに当時や現在の公表偏差値は定かではありません)
もう、ほんとうの話なんです。
「うわあ~~~~青山通りってなんかすっげオシャレ。こんなトレーナー(スエット)とか着てテニスとかやってるカップル、地元で見たことないよ」
「うわあ~~~~青山学院大学!!!が・く・い・ん!!(学院って学校とどう違うのかな) かわいい女のコ、どえらいいそうだがね(すごくいそうだよね)」
そう、現在のようにインターネットなどありません。本屋へ行ってカタログみたいな、東京の大学特集みたいなの買ってくるわけです。
しかももう高3の秋。
東京の地図なんか広げて、大都会でうきうきと女のコとデートしたりバンドでモテてしまったり、カマロかフィアットに乗って海に出かけたり(なぜこの車種かというと矢沢永吉の唄に出てくるから)・・・・・・
大学に行こうとしている割に、どうも勉強が手につきません。
しかもこの土壇場でコピーバンドの方の女ギタリストから紹介されたポニーテールが眩しいほど似合う茶髪というより金髪の1つ上のかわいいH先輩が気になって気になって、東京に駆け落ちしようか迷っています(あ、迷い、ありましたね、バカ)。
どうしたら勉強という魔物を追い払いながら花咲乱れる大都会への道を歩いていけるのか??
①受験科目数の少ない、私大を目指す
②しかも数学を選択しない文系
③大都会、東京山手線にアクセス近しな50点台をとれば合格するような大学
永井荷風という作家がいいました。
「無知ほど完全な幸福は、ない」・・・・・・・・・
妄想の果てにあっという間に2月・・・・
額にそり込みを入れ、試験の答案用紙を隠蔽し、素行不良を重ねるぼくを
たまに帰ってきては殴る父親のもと(東京・神田)を訪ね宿泊しなければならなかったのは、苦くもあり感謝です。
なぜなら受験するための受験料って1校で2万円もしたのです。
新幹線代などもすべて出してくれたのです。
日本大学、法政大学、駒沢大学、東洋大学。
ぼくが当時、牛乳工場で終日働いても日当5千円でしたから16日間も働かなければならないのでした(ありがとう)。
初めての東京。
初めての地下鉄。
人、人、人、人・・・・・・・
湧いてくる。押し寄せてくる。
「うわあ~~~~~すげえ!!! 渋谷だ。
うわああああああ新宿だってよ!!!」
ふ~~~っとため息が真っ白な季節に強烈に忘れない曲がありました!!
♬「街の唄が聴こえてきて 真夜中に恋を抱きしめたあの頃・・・・・・ 誰にも従わず・・・・・」
そう、なんという都会センスに溢れた曲
佐野元春さんの「SOMEDAY」
ぼくは、東京に恋をしていたのです。
し、しかし・・・・・
まず1校、を受け、2校めの受験日・・・・・・
穴があっても入れないような出来事が・・・・・・つづく
(ごくごく普通にイントネーションを含めて「うちな~ぐち」(沖縄弁)になっている息子にちょっとした驚きを隠せなかった頃。ひとつひとつが、感謝感激でうれしい毎日でした)
「おめでとう」「ありがとう」・・・
あの人へ、想いを刻む贈り物
よろしければホームページもご覧ください。。m(__)m
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