★しあわせ舞台感得 土居(どい)の沖縄移住物語★
爆ボレしてしまった南の島を忘れるほどの、激務がスタート!!
太陽さん、こんにちは。海よ、今日もきれいだね。
新島での大学時代の夏。 眩いばかりの夏の日の、青く美しい日々と音楽が重なって想い出を携えて東京に戻るのです。
2月のブログからおひさしぶりです。
5年間、小さな息子とふたり、現在ふっしー(父子家庭)ばく進中の土居秀人です。
さてさてもう、早く「沖縄」のお話に持っていきたいので、猛スピードで自分を追いかけますね!!
大学時代に、「夏」に目覚め、音楽を続けますます4年生になっても普通に就職する気が起きません。
「満員電車に乗って通勤したくない」「ネクタイなんて、スーツなんてヤダ」・・・
そうなると、バブリーでなんとなくモテそうなマスコミ系を狙います。
▲もう、これでラスト、と決めたライヴ。
早稲田だけでも先輩に「聖飢魔Ⅱ」のデーモンさん、ZIGGYの森重さん、すごいバンドが東京にはいっぱいです。
当時のメンバーもプロになって・・・てことよりすんごい会社に就職です。
「がっつり仕事して、休みには南の島へ行こう・・・
???って考えよりやっぱりやりたいことが増えたのです。樹林伸先輩のおかげで編集者への道も開けた・・・つもり。
そうだ!TV局とレコード会社と電通を受けよう。そうすれば音楽を、仕事にして六本木だけじゃなくて世界中で飲めるだろう」
こうして2000人以上の筆記試験~面接受験者の中からなぜか20人残って
「いまひとつパッとしなかった人生がヤバいくらいおもしろくなって」きたのであります。
「ニューヨークに行かせてください」
面接のたびにそう懇願するぼくに活を入れられるかのように決まった配属先は
現在も音楽雑誌として沖縄でも発売されている邦楽誌。
当時は、TMネットワークやら、尾崎豊、ボウイとか・・・。
チェッカーズや米米CLUB(最初知らなくて「ヨネヨネクラブかと・・」)とか人数が多いのでインタビューがたいへん。
たくさんのミュージシャンのまさに「現場」・・・日本でお仕事をすることになったのです。
けれど、忙しいミュージシャン。東京での取材時間が取れなかったり、「追っかけ取材」だったり、地方のコンサート・ツアーにも同行します。
沖縄ではなかなか大所帯なツアー(那覇市民会館、沖縄市民会館やコンベンションセンター⇐ココ、海が見えるのでいちばん好きでした)になりますが
仕事で来ていました。それゆえコンサート会場と松山(繁華街)と空港くらいしか知らないまま、なんと20年以上が過ぎてしまったのです。
特に想い出深いのは、大好きだったこのバンド(当時は均等に何気なく好きなふりが必要でしたが)・・・
以前は、2000人以上収容の大きな会場で沖縄公演をしていましたが、
少し前久々に沖縄公演があるとメンバーから電話があり那覇で盛り上がりました。
ジュンスカイウォーカーズはひと頃、1年のうちに90本以上コンサートで、
取材時間がとれずぼくも一緒に各地に飛ぶ日々が続くのです。360日で割るとそれはもう器材のトランポ(移動)や、舞台や照明の設営(通常ホールには何一つ準備はありません)、街から街へ、すさまじい旅なんです。
担当させていただいたミュージシャンは数えることができませんが、その「現場」を最も学ばせてくれました。
お客さんは4,000円や5,000円やを払って2時間半のステージを観に来る。
どの場所においてももちろん最高のステージをつくるのはミュージシャンはもちろんスタッフも命がけなんです。
メンバーやぼくらは終演後飲みに行けても、クルーはそうはいきません。
すぐさまバラシ、といってもおかたずけではありません。
4トラック何台もに及ぶ器材を解体し積み込み夜中の内に移動し、翌朝会場「たとえば大阪のあと広島公演など」でリハーサルに間に合うよう搬入しステージを作り機材の配線や照明のセットを組むんです。
ある時、「今、どこにいるんだっけ?」なくらい仙台にいるのか福岡にいるのかパタパタです。
▲ヴォーカルの宮田和弥やドラムの小林雅之が那覇の松山にある友だちの飲み屋=シャングリ泡、に顔を出してくれました。
取材、編集、打ち合わせ、飲み、ツアー・・・・
激務というより毎日が刺激と笑いに満ち溢れ日本の音楽シーンをファンのみなさんといっしょに過ごせた気がします。
あ、という間の音楽時代。
いろんな人を有名にするお手伝いができたなら
沖縄を有名にするお手伝いだってできるんじゃない!!??
入社1年・・・
かりゆし沖縄の土居は、
いよいよ「沖縄時代」に突入します!!
みなさんにふえでーびる~~~
>>よろしければ、かりゆし沖縄のホームページもご覧ください!