名入れ泡盛本舗 かりゆし沖縄

【世界でひとつ】究極のプレゼント・・・沖縄編 vol.18

★しあわせ舞台感得=ふっしー(父子家庭)土居の、沖縄移住物語★

「悪いひとじゃあなさそうだけどねえ」・・・

土居です。

面接をしてくださった方のこの言葉、この低く細い声のトーンと訝(いぶか)しげに見つめられる目・・・

または、
「親戚の方とかはいらっしゃらないんですか?」
「お子さんとおふたりだけで? 4歳になったばかり?(お子さんに)何かあったらどうするんですか?」
「残業や休日出勤、できないですよね?」・・・・・
迫られるようにおっしゃる声・・・。

沖縄への道のりは、近くはなかったのです。

今から5年前、
「元気なうちに、沖縄で暮らす」
「沖縄を有名にしたい」
意を決して移住の準備と就職のための面接を受け始めたのです。

小さな息子ひとりと全くの未知の土地、環境での暮らし。
もともとどこでだって生きていける、と息巻くには大変な状況でありました。

47歳という年齢ももちろん、沖縄にとって全くの「よそ者」であり、子どもを平日のみ保育所に預けての労働・・・

すなわちシフト勤務や平日休みの仕事や残業の生じる仕事は、「ない」に等しいのでありました。

ネットでの情報から沖縄県の企業に履歴書・職務経歴書を送ってみてもほとんどが「返送」。

お目にかかる機会すらいただけません。
「雑誌・書籍編集」「販売促進」「コピーライティング」「広告・イベント等ブランディング」・・・そんなスキルなど空しく空回りする中、観光立県沖縄への想いは募っていきます。

出版・音楽業界を俯瞰的に見始めた2003年、日本政府はグローバル観光戦略を打ち出しビジット・ジャパン・キャンペーンを強化。

要はモノづくりニッポンから観光サービスへの経済興隆パラダイムシフトであります。

ぼくは、2005年、おそらく生涯に2度とはないであろう出生地での国際博覧会「愛・地球博(愛知万博)」のイベント企画制作・スポンサー事業のため、広告代理店の人間として移住しました。

すでに韓国・台湾からの訪日観光客に対して短期滞在査証の免除~延長・恒久化を始めインバウンドの推進と共に、小泉内閣は沖縄への観光振興(正確には沖縄振興)予算についても2010年以降3000億を超える目論見を視野にしていました。

当時、この博覧会によって好景気に沸いた愛知県の感はありましたが、納得がいくまでとことんできた音楽の世界とは異なり

「ほんとうに誰かが喜んで、想い出に残る場面づくり」

ができたかどうかは、甚だ疑問でした。

ただ、その後愛知県では多くの人の近くにある大型書店チェーンストアに販売促進マネジャーとして入社。

ぼくは、こんなに恵まれているのにどこかドキドキする「何か」、ワクワクするこれからの人生を想ったのです。

なぜなら、
人生最大の贈り物・・・

まさに、究極のプレゼント・・・

そう、男の子を授かったからです。

きらきらと、太陽と海が輝く島で、思いっきり笑いながら暮らすんだ!!

 

▲もう撮ることもないのかもしれないけれど、沖縄へ面接に通っていた頃、見るもの触るもの珍しくいっぱいFacebookにアップしてました。

「わったー」ってどういう意味(ぼくたち、わたしたち)だ?

名入れ泡盛ってなんだ?

タコスなんて普通に食べられないぞ!!

わかんないことが多いってしあわせなこと。

おかげさまで世界中に出張で行けたのに、沖縄のことは本で読んでるだけ。
コンサート・ツアー(仕事)で何度か会場と松山(飲み屋街)に来たことがあるだけ。

ありがとう。

履歴書の最後のほう、右下をみると「配偶者なし」「子ひとり」・・・
採用!!となりかけたそ瞬間お気付きになられた社長さん(面接官)もいらっしゃいました・・・・。

いまは、ありがとう。
いま、おかげさまで生きています。

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【世界でひとつ】究極のプレゼント・・・沖縄編 vol.17

★しあわせ舞台感得の「ふっしー土居」の、沖縄移住物語★

ああ、ごめんなさい。

ぼくは、泡盛について知らなさ過ぎたのです。
これはもう、今から10年以上も前のこと。
東京都渋谷区にある沖縄料理のお店が印象的でした。

ただ、音楽の、マスコミの世界の接待なのか打ち合わせなのかとても乱暴な飲み方をしていたのです。

「美味しい泡盛」・・・・というより「高い泡盛」を選んでいました。

ちなみに沖縄出身のアーティストと酌み交わすご縁はたまたまありませんでした。

それが、なぜ高いのか。なぜ「古酒」というのか関心がなかったのです。

一青窈(ひととよう・歌手)なのか豆腐よう(島豆腐を米麹、紅麹、泡盛によって発酵・熟成させた発酵食品)なのかよりも、「どうしたらこの音楽が売れるか」ということだったのでしょう。

ごめんなさい。
なぜ芳醇なロマンの片鱗に触れることもなくがぶ飲みしていたのか、よくわからないほどに「ゆっくり時間を育む」ような生活ではなかったからです。

 

 

だから、自身が家庭をもち、子育てをし、こんな夕陽といっしょにビールや泡盛を飲んで語らうなど全く持って夢の中、だったのです。

『もっと早く知っていればよかったのに』・・・

書いてはみたものの、本心はそうも思ってはいないのです。
出逢いが遅かったからこそ新しく育んでいけることもあり、引き寄せるような出逢いもあると思うのです。

何より『行動を起こさないまま後悔するより、やっちまった方がいい』、が信条ですから(笑)。

だから、「知らないコト」は知らない!!ってすぐ言っちゃう。

すぐ「知ってる人に聞く」。調べる。
だから今、泡盛と一緒に、想い出というより未来を描きながら語っています。

もうすぐ沖縄永住5年。
濃ゆい(濃い)お話、続きます。
無職のまま、ちいさな息子と沖縄には住めません・・・・。
怒涛の面接、高い飛行機代・・・まいったな~~~(続く・・・・)

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【世界でひとつ】究極のプレゼント・・・沖縄編 vol.16

★しあわせ舞台感得 土居(どい)の沖縄移住物語★

爆ボレしてしまった南の島を忘れるほどの、激務がスタート!!

太陽さん、こんにちは。海よ、今日もきれいだね。

新島での大学時代の夏。 眩いばかりの夏の日の、青く美しい日々と音楽が重なって想い出を携えて東京に戻るのです。

2月のブログからおひさしぶりです。
5年間、小さな息子とふたり、現在ふっしー(父子家庭)ばく進中の土居秀人です。

さてさてもう、早く「沖縄」のお話に持っていきたいので、猛スピードで自分を追いかけますね!!

大学時代に、「夏」に目覚め、音楽を続けますます4年生になっても普通に就職する気が起きません。
「満員電車に乗って通勤したくない」「ネクタイなんて、スーツなんてヤダ」・・・

そうなると、バブリーでなんとなくモテそうなマスコミ系を狙います。

 

▲もう、これでラスト、と決めたライヴ。

早稲田だけでも先輩に「聖飢魔Ⅱ」のデーモンさん、ZIGGYの森重さん、すごいバンドが東京にはいっぱいです。

当時のメンバーもプロになって・・・てことよりすんごい会社に就職です。
「がっつり仕事して、休みには南の島へ行こう・・・

???って考えよりやっぱりやりたいことが増えたのです。樹林伸先輩のおかげで編集者への道も開けた・・・つもり。

そうだ!TV局とレコード会社と電通を受けよう。そうすれば音楽を、仕事にして六本木だけじゃなくて世界中で飲めるだろう」

こうして2000人以上の筆記試験~面接受験者の中からなぜか20人残って
「いまひとつパッとしなかった人生がヤバいくらいおもしろくなって」きたのであります。

「ニューヨークに行かせてください」

面接のたびにそう懇願するぼくに活を入れられるかのように決まった配属先は
現在も音楽雑誌として沖縄でも発売されている邦楽誌。

当時は、TMネットワークやら、尾崎豊、ボウイとか・・・。
チェッカーズや米米CLUB(最初知らなくて「ヨネヨネクラブかと・・」)とか人数が多いのでインタビューがたいへん。

たくさんのミュージシャンのまさに「現場」・・・日本でお仕事をすることになったのです。

けれど、忙しいミュージシャン。東京での取材時間が取れなかったり、「追っかけ取材」だったり、地方のコンサート・ツアーにも同行します。
沖縄ではなかなか大所帯なツアー(那覇市民会館、沖縄市民会館やコンベンションセンター⇐ココ、海が見えるのでいちばん好きでした)になりますが
仕事で来ていました。それゆえコンサート会場と松山(繁華街)と空港くらいしか知らないまま、なんと20年以上が過ぎてしまったのです。

 

 

特に想い出深いのは、大好きだったこのバンド(当時は均等に何気なく好きなふりが必要でしたが)・・・

以前は、2000人以上収容の大きな会場で沖縄公演をしていましたが、
少し前久々に沖縄公演があるとメンバーから電話があり那覇で盛り上がりました。

ジュンスカイウォーカーズはひと頃、1年のうちに90本以上コンサートで、
取材時間がとれずぼくも一緒に各地に飛ぶ日々が続くのです。360日で割るとそれはもう器材のトランポ(移動)や、舞台や照明の設営(通常ホールには何一つ準備はありません)、街から街へ、すさまじい旅なんです。

担当させていただいたミュージシャンは数えることができませんが、その「現場」を最も学ばせてくれました。

お客さんは4,000円や5,000円やを払って2時間半のステージを観に来る。

どの場所においてももちろん最高のステージをつくるのはミュージシャンはもちろんスタッフも命がけなんです。

メンバーやぼくらは終演後飲みに行けても、クルーはそうはいきません。
すぐさまバラシ、といってもおかたずけではありません。

4トラック何台もに及ぶ器材を解体し積み込み夜中の内に移動し、翌朝会場「たとえば大阪のあと広島公演など」でリハーサルに間に合うよう搬入しステージを作り機材の配線や照明のセットを組むんです。

ある時、「今、どこにいるんだっけ?」なくらい仙台にいるのか福岡にいるのかパタパタです。

 

▲ヴォーカルの宮田和弥やドラムの小林雅之が那覇の松山にある友だちの飲み屋=シャングリ泡、に顔を出してくれました。

取材、編集、打ち合わせ、飲み、ツアー・・・・
激務というより毎日が刺激と笑いに満ち溢れ日本の音楽シーンをファンのみなさんといっしょに過ごせた気がします。

あ、という間の音楽時代。
いろんな人を有名にするお手伝いができたなら
沖縄を有名にするお手伝いだってできるんじゃない!!??

入社1年・・・
かりゆし沖縄の土居は、
いよいよ「沖縄時代」に突入します!!

みなさんにふえでーびる~~~

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【世界でひとつ】究極のプレゼント・・・沖縄/特別編

★しあわせ舞台感得土居(どい)の、沖縄移住物語★

「ええ~~!? た、タイムカプセルに初の泡盛投入!!」

みなさんこんにちは。
突然ですが、最近感動しましたか?

「わあ~~って思うようなコト、何度ありましたか?」
ぼくは、この2月の23日、とてもとても感動しました。

なぜなら、中学生の卒業に合わせたタイムカプセルの中に、名入れ泡盛記念ボトルを投入していただくことになったからです!!

 

 

きっかけは、とあるお嬢さま(お客さま)が還暦をお迎えになったお父さんに、と贈られたボトル。

それを受け取ったお父さまがご来店。小生とご近所であったり、そこ読谷村(よみたんそん)のすばらしさを語り合ったのがきっかけでした。
ほんとうにありがたいことです。ご縁に感謝感激であります。

あ、そうそう。そもそもなぜ感動!!なのか・・・・
それはご存じのみなさんも多いと思いますが、泡盛はボトルの中でも熟成を重ね、時を経て、人生の物語を紡いでいくほどに芳醇でまろやかな味わいとなる、まさに未来への贈り物、なのでありますね。

 

 

ここ中頭郡(なかがみぐん)読谷村中学3年生を卒業されたみなさんが、この後、出会いと別れを繰り返し、15年後の30歳の1月に、また同窓会として集まるそうなんです。

校長先生のお話でちょっとうるっときてしまいました。
「わたしは、初めて教師というものになって担当したのが2年9組でした。よれゆえ担任を離れる時、生徒のみんなと約束をしたのです。
”29年後の2月9日、2時(14時)9分、またここ(当時の学校)で会おう”と・・・・」

・・・・・8人の生徒さんが来て、夜は何十人とたくさん集まってお酒をたしなんだそうです。

ね、ね、いいでしょ~~

15歳の生徒さんは、きっとこの日をしばらく忘れてしまって、社会に巣立っていくのだけれど
また、”会える”・・・・そんな「約束のお酒」・・

なんてロマンティックなんでしょう・・・

 

 

みなさんのタイムカプセルは、どこかにありますか?
ぼくにとってはたったひとりの息子の中に、あるのかもしれません。
これからたくさんの学校で、こんなロマンスが生まれるといいな。
卒業していく生徒さんが、平和と愛の中でたくさん子どもを作って社会を育んでくれたらいいな。
そして今回のように、それを支える教育者が、熱くて優しいといいな。
この度、わたしたちかりゆし沖縄に、全卒業生を前にご挨拶をさせていただき
このようなかけがえのない機会をくださった「未来 夢 実現委員会」のみなさま、沖縄県教育委員会のみなさま、読谷村教諭のみなさん、
保護者のみなさん、ほんとうにありがとうございます!!
沖縄が世界に誇る「泡盛を贈り合う」文化を広めてまいります!!


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【世界でひとつ】究極のプレゼント・・・沖縄編 vol.15

★しあわせ舞台感得 土居(どい)の、沖縄移住物語★

南の島しかありえない!!強烈な理由とは?

▲1月にこんなにひまわりが咲くんです。心もいつもあたたかく、ブログ、新境地からのスタートです!!

 
さっむ!!寒い寒い寒い・・・とはいいながら沖縄は20度くらいの2月中旬に想ふこと。

たとえば、深田恭子を好きなのにこれといった理由はいらない。

なぜなら、好きなものは好きだから。

強いて言うならば、「かわいい」から。
厚顔を承知でいうならば空想的仮想交際を描くと、かなり満面の笑みがこぼれるであろうから。
 
ぼくの「夏」好きはまさに「好きなものは好き」だから。
 
もう、できたら1年中夏がいい。
そうなってしまったのには強烈なワケがあるのです。
 
1985年、東京。初夏。21歳。
与論島と新島の海の家にアルバイト情報誌フロムA(この時代ですから)を見て電話をしたのが始まりでした。
 
「すみませ~ん、ぼくらふたりなんですけど、バイクも持ち込んでいいっすかあ」・・・・・
 
与論島は、即座に断られたのに新島(伊豆七島)のサンシャイン食堂だけは、
「バイクは困るけど波乗りはできるよ。遊ぶ時間もちゃんとあるから」
 という優しいおばさんの対応で即決となり、大学の同級生のバイク仲間、柴田くんと夏休みの40日間、働くことになったのです。
 
究極のワケとは、コレ!!
 
「ラナウェイ~南へ向かえばいま♬」・・・・
 
バイクで、とにかく南へ向かうんだ。それだけ。
 
しかし、焼けつくような東京・浜松町の竹芝桟橋から船で何時間かかっただろうか・・・・
 
 

▲大好きな沖縄、名護の冬の海・・・・毎日海を見ながら暮らせる今、しあわせ者であります。

 
1985年、7月。式根島を経由しゆっくりと、ギラギラの太陽を連れて伊豆七島の新島の港にアクセスしたのであります。
 
こうして翌朝、生まれて初めて目の当たりにした透明な海、透き通ったミント色のオーシャン・・・
もう体ごと宙に浮き、言葉を失ったのがきっかけなんです。
 
もともと、海にはロマンがある。
恋がある。
音楽に傾倒していた分、そんな世界観を強く持っていたせいもあるでしょう。
 
海、透明、きらめく太陽、はしゃぐ女の子たち・・・・・
 
こんな頃はおわかりの通り、携帯電話や自撮りはおろか、ネットもないので情報不足。
 
しかし、ヤル気(何のだ!?)は灼熱の太陽をもビビらせるほどに爆発しそうでありました。
 
何でも想像してみて、行ってみて、やってみて、がすべてでした。
だ、大正解!!!!!
 
もともとお金を稼ぐためのバイトではなく(でもちゃんと休まずサボらず仕事してきましたよ)燦然と光輝くロマンを過ごすことがすべてだったのです。
角松敏生を聴きながら・・・。
 
なんという海、なんという素晴らしいところ・・・・・
 
現在(いま)でいうチャラさ暴発な南の島での生活は、大都会でのむやみな喧騒を忘れさせ、初めてのほんとうに好きなことだけをして過ごす夏になったのでした。
 
昼はかつ丼、焼きそば、かき氷を作っては出し、洗っては接客し。
休憩時間や夜は音楽や女の子(観光客)とビーチでビール。住み込みの部屋でも楽しいことばかり。
 
青い空、美しい海、まるでこの世のものとは思えないほどのサンセット・・・
 
「これじゃいかん」
と思ったくらい真夏の40日間の浮かれ騒ぎは、ぼくたちの肌をビール瓶のごとく焦がしながら通り過ぎていくのでした。
 
最初はフラれてしまった沖縄方面(現実には与論は鹿児島県ですが・・・・)・・・・
 
ミッド・サマーな想い出は、この後実はこっそり、ずっと続いていきます。
 
そう、沖縄に住みたい。
煌めく太陽と海の島で、冷たいビールを飲むのだ!!
 
そんなふうに想ふ21歳。

泡盛との出逢いはずっと先のことでありました・・・・

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【沖縄移住物語】え?マタニティーペイントとクリスマス?? vol.14

土居です。

沖縄イズナンバー1(ワン)!!
沖縄ファンのみなさんならご存じですよね。
今年も、もちろん全国一の出生率は沖縄県。
雪の降らないクリスマスも沖縄県
(知る人ぞ知る「こどもの国」、は別ですよ~~)
舞台感得の土居です。
子どもが大好きなので、やっぱり嬉しい事実です。
さらにさらに、マタニティーペイント上陸中??なウワサ??
そう、妊娠というおめでた過ぎるその時期に、大きく命育むベリー(お腹)に、オリジナルデザインを描くアニバーサリー・ペイントな儀式!

(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪

おめでたい感触と思わずにやけてしまう嬉しさ、

きらきらの未来をウキウキ想像してしまう心のスキップは、なんと名入れ泡盛記念ボトルに似ていることでしょう(笑)。

だって生まれる前から、大きなおなかの様子だって刻印できちゃうんだから。
妊娠➡出産➡ベビーグッズをいただく・・・という元来の方程式だけではなくなっているのです。

嬉しい楽しい大好きな機会は、何度あってもいいものですもんね。
こんな時期は、ベビーメタル、じゃなかったベビーサンタさんを描いてもらいましょう!!
す、すご~~~い!!

もう想像しただけで溢れそうな想い。

雪もとけそうな愛の情熱。雪もお手伝いする愛の結晶・・・いいなあ~~。
と、いうわけで、2012年沖縄移住後初のクリスマスのメモリー。
とにかく4歳のひとり息子にとってもぼくにとってもすべてが初めての沖縄のクリスマス。

 

(もう、いつの間にこんなにかわいくきれいにイルミしたの??てくらいでオシャレでかわいいアメリカン・ヴィレッジのクリスマス)

大好きな北谷(ちゃたん)のイルミネーションは輝きにきらめいて、アラハビーチは半袖が行き交うほどに暖かくて、新都心のサンエーメインシティ(ま、デパートのような)は、にぎやかにプレゼントを選ぶ人々で笑顔だらけ・・・。

ただね、ふっしー(父子家庭)としては、この時期、気温は暖かいのにちと寒かったなあ。

待ちゆくカップルや家族連れ・・・・

それを横目に息子と観覧車乗っったり、ふたりでレストランでクリスマス会をしたり。
(あんまり楽しくてはしゃいでるから暑くてよく腕まくりしたりTシャツ1枚に着替えたり)

 

(地面に投下される光のビームに合わせてきゃっきゃと遊ぶ出生率ナンバー1の県内無邪気な子どもたち。かわいーです。)

ね。今年ももう12月。
未来へのプレゼントは、お決まりですか?

「あなたの好きな世界観は、そのままあなたの好きな人へのプレゼントにはならない」・・・なんて言葉もあるくらい選ぶのって難しいですよね。

ぼくもいっぱいプレゼントを渡してはきたのですが、いつもいつも迷いましたし、迷います。

そんな時は、某世界的な販売サイトなどでお探しになるより先に、「その人の近しい未来」を一所懸命に想像してみましょうね。意外と身近なところに答えが見つかるかもしれませんよ。

「時」をプレゼントするとか。

寂しさと幸せを演出するとか・・・あ、難しくなってきました・・・。

 

(那覇市内に住んでいた初めての冬、ぼくは息子からとっても素敵なプレゼントをもらいました。それは、「健康」。うちな~語(沖縄言葉)もしっかり保育園で覚え、風邪ひとつ引くことなく環境に順応してくれてあました。ありがとう。)

みなさん、嬉しいことは待っていないで探しにいきましょう。
どうかみなさんにとって、すてきなすてきな感謝のクリスマスになりますように・・・・

「おめでとう」「ありがとう」・・・

あの人へ、想いを刻む贈り物

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【沖縄移住物語】ぜったいに受験に合格させたい親がするべき、たった3つのこと vol.13

土居です。

なぜか華やかな街の装いと、緊迫した受験生の顔色と、ホームセンターの混雑が交錯する12月。

沖縄への道のりを辿っていくと、振り返らずにはいられないド不良から、偏差値70へのほぼ90度の上り坂・・・

沖縄も20度・・・寒い寒い冬の扉が開きました。
と、いうわけでかねてより現舞台感得の小生(土居)は、19歳、

何が何でもトップを目指す(過去ブログ参照)ことにしたのです。

苦しかった
寂しかった
熱かった

ペンダコ(いまじゃ死語?)ができ、視力が落ち、1年間は〇〇のまま・・・
ほんとうに気がおかしくなるくらい勉強しました。

トイレに英単語。国語、英語ともに辞書をまるごと暗記。
日本史(この反動が国際政治経済への興味に後々なってしまうほど)。
いまでも信じられないほど、人としての寝食以外はすべて猛勉強です。
それこそ尋常でない未来の姿を想像してしまっていたからです。
しかも、極めて客観的に。

思えばこの「客観的」も功を奏したのかもしれません。
「イケてるのか? 勝てるのか? とんでもないヤツ(他人)と、大都会東京で会えるのか? ミュージシャンになり、アラバマ、シカゴ、テネシー州・・・世界中でコンサート・ツアーを行うなら、英語くらい話せなきゃ女のコも口説けやしない!」

 

息子と戦車

(沖縄に現存する米軍基地。初めての戦車。何でもかんでも経験してみます。ビビることなんて何ひとつありません。)

そう、もしもこれを読んでいただいているアナタが受験生をもつ親御さんでしたら,
①まずお子さんに「想像させて」ください。
どんな大人になっていたいか。どんな仕事で、どんな未来を描きたいかを具体的に想像させてあげてください。
難しいですか?
何より「いい点をとる」「ほめる」のようなレベルでは、そのレベルで終わってしまいます。

②そして「安心させて」あげてください。
小さな頃から「できた」小さなことを想い出して、よくできてる。よくやっている。
と、言葉も気持ちも伸ばしてあげて声をかけてあげてください。
受験生だからと腫物をさわるようにしないことです。

③何より「得意だったこと」を思い出させてください。
受験や勉強に関係ないことのほうがより効果的です。
苦手だ、向いていない、と思うような勉強の仕方では勝てません。
詰め込んだ知識は、試験本番になると緊張によってうまく出てこないのです。

それよりも自信をもたせてあげてください。
そう、書籍ではないのでシンプルにこういうことなんです。
僭越ながらこれは当時思ったことではなく、①~③までは自身には全く経験のなかったことではあります。

後に仕事で数々のミュージシャンと出逢うことよってこんな風に思ったのです。
テスト、受験ほど簡単なものはないと思います。

やれば、結果がついてきます。必ず。
「やってない」人が理屈を並べます。

社会に出て、世界を相手にして志を遂げていく方が困難だと思います。
それは、血が出るような勉強(もっともぼくはそう思っていないのですが)をされなかった親御さんでも、実社会の偏狭、競争、人間関係の方がどれほど大変か身をもっておわかりではないでしょうか。

 

象と息子

(初めての巨大な象さんにも全く動じません)

うん、ほんとうに大したことはないんです。
ただ、「なりたい自分」や「したい社会」にしようとする未来への強烈極まりない想像力を鍛える方が、なにより大したこと、になるような気がします。

難しいでしょうか?
要は受験そのものへの必要性ではなく、そこを乗り越えるために必要な「志(こころざし)」が張り裂けそうなくらい膨張し、舞い上がることのほうが重要だと思うんです。

勝手でしょうか?
ぼくは早稲田に行くと変態に会える!(笑)
そう思っていましたし、実際いました。
政治家、日本屈指のエンタテイナー、プロデューサー、今でも楽しく刺激をもらっています。

 

花火

(打ち上げましょう!でっかい花火! いーじゃないですか大げさだって。ちなみに宜野湾での海上花火を至近距離で。大迫力です!! どっか~~~んと未来を描きましょ~~)

合格した後、何をしたいか!!
どう世の中に出ていくか!!
わくわくが止まらなければ、超絶な自信でもって受かります。

次回、沖縄への道・・・・
真夏のクリスマス??

「おめでとう」「ありがとう」・・・
あの人へ、想いを刻む贈り物

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【沖縄移住物語】君には、俺が世界で一番合っている。間違いなく、合っている vol.12

土居です。

そう、こんな想いをガツンと伝えて結婚したのにも関わらず、事故によって妻を亡くした男の人生と、父子家庭の男たちの人生物語が「永い言い訳」。

沖縄では、母子家庭の割合は日本一。
ぼくは、父子家庭。
いつも小さな息子とふたり。
それなのに、心豊かに沖縄はぼくらを支えてくれています。

ありがとう。

前回、もう絶対ここ(地元名古屋)にいちゃ(何も)始まらない、と東京を目指し、意地でも日本一の大学へ行くことに決めました。18歳に近い頃です。

まだ、沖縄への想いへは遠いのですが、すべてはつながっています。
なので、少しはみなさんにお役に立てるよう、豚(⇐沖縄のあぐー豚はホント美味しいのだ)が10匹、編制飛行で実際に自力で空を飛ぶくらい低すぎる可能性を跳ね飛ばす「合格の秘訣」をお伝えするつ・も・り・でした。

これは、受験生と一緒に歩む親御さんのためにしっかりと次回お伝えします。
ごめんなさい。

さてさて、昨日の沖縄は終日、悲しげな氷雨(酔わせてくださいもう少し♬・・・・・・)でした。

ちょっと哀し気な音楽や本が似合う気がして手に取ったのが「永い言い訳」という小説。

ブア~~~~~
なんじゃこりゃああああああ

 

永い言い訳

ぼくは、実は言い訳を得意としていた情けない野郎(でした⇐過去形です!)。
解き放たれた今はないんですが、一時期はそれはもう・・・・

全国津々浦々で映画も公開中ですのであまりネタばらしになってはいけないのですが、ぼくには「沁みて」きましたね~~~~

なぜって???

父子家庭になった5年前、自分を勝手に悲劇のヒーロー(?)に位置付け、心のどこかで環境を恨み、自身を蔑(さげす)み、良くない状況を周りのせいにしてただ呼吸をしていたのです。

ひたすら金銭を稼ぐだけ。なんだか生きていませんでした。

仕事は、創業50年来初の新部署創設という中、「自分にしかできない」仕事で入社したはずが、1年を過ぎると別の部署へ。

40歳をとうに過ぎていたので家も買ったし家庭も持ったし、「自分のアイデンティティ」を出せる仕事以外もしなければならない・・・・

頭の中でわかってはいたのですが、「機械的で誰にでもできる」平穏無事な仕事こそがすべて、な状況にノイローゼになっていきました
(誤解のないよう申し上げます。あくまで個人の主観です)。

以前までが音楽の世界でとても自由度の高い、挑戦的な仕事をさせていただける状況にあったため、そのギャップに故障をきたしたのだと思います。

ある日、大きな交差点で右折車両に追突され、交通事故を起こしました。
(みなさん、お願い!!!黄色信号は進め!ではありません ぼくも黄色で進入したのです)

小説「永い言い訳」に出てくる父子家庭の環境・・・・・
父は長距離トラックの運転手、子どもは小学生の男の子と保育園の女の子。

想像できますでしょうか?

本来、子どもが小さいと、まともに働けないのです。
かくいう僕も、沖縄での職探しは難航しました。面接の最後(履歴書の右下に、配偶者なし子ひとり)。

残業できず(保育園というのはお迎えの時間厳守)、休日出勤できず・・・
(ま、これも言い訳のひとつです。丈夫な息子に支えられ病気は極めて少なく感謝、感謝です。そんな状況をわかって受け入れてくれた沖縄最初の就職先:広告代理店社長にも)

食事、お迎え、エトセトラエトセトラ・・・・・

この小説では、小学生の男の子(大宮真平)の主体性や葛藤やいじらしさがキラリ、なんですね。

団地での生活、幼いお留守番、塾、お迎えの道、夕陽、バス通り・・・

 

息子と沈む夕陽

(「夕陽はなんで沈むの?」息子からの問いかけに、こう答えてきました。「次の街を照らしにいくんだよ」)

ぼくは誰かと比べて、まっとうなのか、ましなのかはあまり考えたことはありません。

そんなこと、考えてる余裕は正直ありませんでした(ふたり以上お子さんがいらっしゃる方、すごい!)。

ただ、ほんとうのことをいうと何度「助けて~~~」って誰彼ともなく大声を出したかったかわかりません。

同時に何度「生まれてきてくれて、ありがとう」と大声を出せるようになったかも、わからないほど。

そうなんです。

子どもって言葉にできないほどありがたい、ものすごい存在。
だから、ぼくは(結婚自体を)失敗したっ!! って考えないようになったのです。

この小説のいう「妻が死んだ。これっぽちも泣けなかった。」は、自分にはあてはまらないけれど、ほしくて仕方がなかった子どもができて、「愛する」ことを学んだのです。

 

初めての観覧車

(【生まれて初めての観覧車】北谷(ちゃたん)町アメリカン・ヴィレッジにある大きな観覧車。ついこの間までよく乗りに行ってました。人生は観覧車。いろんな角度から見たり見えたり・・・・)

あ、そこんところはこの物語のストーリーと重なる気がします。
「見えないものを見る力のあるやつだけが、世界を進化させるんだ。
でも、ずっとあとになって、自分が望んで手に入れたものの価値さえぼやけてきた頃に、わかってくるの。
見えない世界を見ようとしているうちに、見えてるはずの世界を見失ってしまうの。
世界の進化なんかより、見えてるものをちゃんと見るほうが、ほんとうは難しいんだよ」
こんなセリフが刺さります(映画で言ってるかどうかは観ていないのでわかりません)。
過去2度の結婚の時はプロポーズされました。
今度は自分から、「君には俺が、世界で一番合っている」とかいうのであります(⇐だいじょうぶか?「ふっしー(父子家庭)土居の沖縄移住物語」連載休止か?)。

ただ、いつのことやら・・・・・

ひとつだけ言えるのはこの物語にでてくる人間味溢れた人たちのように「愛する」ってどういうことか、が絶賛成長中!!!!!になったこと。
みなさんはどうですか?
ちゃんと目の前の大切な大切な人が見えていますか?

「愛する」って、その愛する人の「生」を生きること。
現在(いま)のぼくは、そこに夢中です。

「言い訳」は致しませぬ!

「おめでとう」「ありがとう」・・・
あの人へ、想いを刻む贈り物

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【沖縄移住物語】マンションの部屋に全裸の男!ぜったい見返してやる!! vol.11

土居です。

東京に恋したぼくは、辞めずに踏みとどまった高3の冬、そのシルエットにやられてしまい、振り返って微笑み返すだけで香る茶髪のポニーテールが身体ごとぼくをゆさぶるひとつ上のヤンキーな先輩にも恋してしまっていました。

ぼくの卒業式についてきてくれたあの、陽の当たるアスファルトと、受験のため東京で踏みしめたあの喧騒のアスファルト。
日大、法政、駒沢、東洋・・・・全校不合格。
今回は、衝撃的な場面が音を立てて崩れ堕ち、もう二度と戻れないところまできた彼女のマンションでの「邪な場面」が、まるで嘘のように闘志に代わるお話。

こ、怖いわ・・・・

そんなわけで大学を全部落ちた理由・・・・
原因は「問題自体がよくわからなかった」のでした。

???

つまり受験問題の設問が、どんな答えを要求しているのか、いまひとつ理解に苦しむ場面が多すぎたのです。

ば、バカ・・・・

ゆえに答えが導き出せないため①~⑤のうち正しい答えをひとつ選べ、という形式に頼りながら、ひたすら落下専用のエレベーターに身を任せるがごとく、その状態を周りに悟られないよう冷静に丁寧にマークシートとやらを塗りつぶすことに力を出し切ったのです。

だから、東京から地元に戻り、落ち込んだというよりは、「なんだったんだあれは?」というひどい感触を他人には言えずにくすぶっていました。

進むか、引くか・・・・・

しょせん音楽でプロ・デビューするなんて・・・というビビりも入り、現状に、この土地に嫌気がさして東京にいけば何とかなる、と受験を軽く考え、そのくせ都会への憧れは増すばかり。

「オレ、二番嫌い。一番にならなきゃ」(「成り上がり」 矢沢永吉)

そう、やってやろうじゃないか。
バカ卒業だ。
一番になる。
アメリカにも、行く。

 

アメリカ人と息子

(おかげさまで現在沖縄で8歳になった息子には「英語を話せると世界中の人と話せる」と伝えています。サッカー選手になったら世界中に行くでしょ! 楽しいよと伝えています。)

そう思いながら新築されたばかりの名古屋駅裏の代々木ゼミナールの向かいの早稲田予備校名古屋校(いまは結婚式場?)に入学手続きをした
(父さん母さんお金を出してくれてありがとう、いまは素直に言えます)

その足で黒川というところに一人で住んでいる恋人(気取りだった?)のもとへ・・・

平日の、昼下がり。木漏れ日も笑顔が眩しい。

ベルを何度押しても出てこない。新聞がまだ扉に刺さったまま(⇐このへんが時代を感じさせます・笑)で人の気配がする。

すっぴんで出てきたのは何分してからだろう。
縦長の部屋の奥のベッドの上には・・・・
「てめえこの野郎!!」
「なんだてっめえはこのクソガキ!!」・・・・

いまなら、笑えます。
若かったです。
ただ、ひとつ。ほんとうに決めたのはお金持ちになること。有名になること。
彼女はぼくじゃなくて年上の彼を選んだ理由
「だってクレスタ乗ってるし、お金あるし、あんた身分も何もないでしょう」
そう、車もバイクも、地位も名声も身分も、お金も、ない。
みてろこの野郎。

驚くほど彼女に対して感情はなく、自分の1年後や何年後かのサクセスをこの瞬間に描くことができたんです。
死ぬほど勉強して何でも可能な世界を手に入れる大きなきっかけになったんです・・・・

次回は、受験シーズン到来の現在(いま)
受験生やお子さんにためになるお話をしたいと思います!!つづく

 

息子と海

(4年前の今(11月)頃です。天気のいい日は海にどっぼ~ん。子どもの着替えを車中に常備するようになりました。「わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい」⇐古いCM・・・・わかる人~~~)

「おめでとう」「ありがとう」・・・

あの人へ、想いを刻む贈り物

よろしければホームページもご覧ください。。m(__)m

【沖縄移住物語】穴に入りたいほど恥ずかしいぼくと、実際に穴に落ちてしまったぼく vol.10

土居です。

「え? 東京へ行きたい? 大学へ行く? 冗談抜きで?」
母がまずこの台詞を悲壮感溢れる表情で繰り返しました。

「そんなの無理だろ」的雰囲気をことごとく裏切ってきたほどではないですが
どこかまともではないところまできているような気もしていた17歳・セヴンティーン。
今回も恥ずかしさ急上昇なガラスの少年時代???のお話。

みなさんは、進路を決めるときに迷った経験はありませんか?
悩んでしまった過去はありませんか?

ぼくは、相談する人こそいませんでしたが、悩んだり考え込んだりしなくってツイています。
(受験生のいらっしゃるご家族の方はここからは読まないことをお勧めします)
なぜなら、恥ずかしいほど世界を知らず、恥ずかしいほど「何とかなる」と暴走し妄想するタイプだったのかもしれません。

 

外国人も平気さ

(北谷(ちゃたん)町とかお休みの日は特に外国人も多いので、息子は全く違和感なく育っています。ぼくがそもそも日本人でない方とのコミュニケーションも好きですからよいことだと思っています。音楽も、スポーツも、泡盛にも国境なし!!)

「うわあ~~偏差値57かあ・・・・ってことは半分ちょっとわかれば(テストで50点代をとれれば)東京の法政大学に受かるのかあ・・・・・」(んなわけないだろっ!!)
(ちなみに当時や現在の公表偏差値は定かではありません)
もう、ほんとうの話なんです。
「うわあ~~~~青山通りってなんかすっげオシャレ。こんなトレーナー(スエット)とか着てテニスとかやってるカップル、地元で見たことないよ」
「うわあ~~~~青山学院大学!!!が・く・い・ん!!(学院って学校とどう違うのかな) かわいい女のコ、どえらいいそうだがね(すごくいそうだよね)」

そう、現在のようにインターネットなどありません。本屋へ行ってカタログみたいな、東京の大学特集みたいなの買ってくるわけです。

しかももう高3の秋。
東京の地図なんか広げて、大都会でうきうきと女のコとデートしたりバンドでモテてしまったり、カマロかフィアットに乗って海に出かけたり(なぜこの車種かというと矢沢永吉の唄に出てくるから)・・・・・・

大学に行こうとしている割に、どうも勉強が手につきません。
しかもこの土壇場でコピーバンドの方の女ギタリストから紹介されたポニーテールが眩しいほど似合う茶髪というより金髪の1つ上のかわいいH先輩が気になって気になって、東京に駆け落ちしようか迷っています(あ、迷い、ありましたね、バカ)。

どうしたら勉強という魔物を追い払いながら花咲乱れる大都会への道を歩いていけるのか??

①受験科目数の少ない、私大を目指す
②しかも数学を選択しない文系
③大都会、東京山手線にアクセス近しな50点台をとれば合格するような大学
永井荷風という作家がいいました。
「無知ほど完全な幸福は、ない」・・・・・・・・・

妄想の果てにあっという間に2月・・・・
額にそり込みを入れ、試験の答案用紙を隠蔽し、素行不良を重ねるぼくを
たまに帰ってきては殴る父親のもと(東京・神田)を訪ね宿泊しなければならなかったのは、苦くもあり感謝です。
なぜなら受験するための受験料って1校で2万円もしたのです。
新幹線代などもすべて出してくれたのです。

日本大学、法政大学、駒沢大学、東洋大学。
ぼくが当時、牛乳工場で終日働いても日当5千円でしたから16日間も働かなければならないのでした(ありがとう)。

初めての東京。
初めての地下鉄。

人、人、人、人・・・・・・・
湧いてくる。押し寄せてくる。
「うわあ~~~~~すげえ!!! 渋谷だ。
うわああああああ新宿だってよ!!!」
ふ~~~っとため息が真っ白な季節に強烈に忘れない曲がありました!!
♬「街の唄が聴こえてきて 真夜中に恋を抱きしめたあの頃・・・・・・  誰にも従わず・・・・・」

そう、なんという都会センスに溢れた曲
佐野元春さんの「SOMEDAY」

ぼくは、東京に恋をしていたのです。
し、しかし・・・・・
まず1校、を受け、2校めの受験日・・・・・・
穴があっても入れないような出来事が・・・・・・つづく

 

合同学習発表会

(ごくごく普通にイントネーションを含めて「うちな~ぐち」(沖縄弁)になっている息子にちょっとした驚きを隠せなかった頃。ひとつひとつが、感謝感激でうれしい毎日でした)

「おめでとう」「ありがとう」・・・

あの人へ、想いを刻む贈り物

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